ただひたすらに「ニジンスキー」を考える。
4/1~4/8まで銀河劇場にて上演されたDANCE ACT「ニジンスキー ~神に愛された孤高の天才バレエダンサー~」を観てきました。
銀河劇場恒例のカクテル。
リーダー命名・リーダー好みのカクテル『ヴァッツァ1919』。
花梨のエキスとレモンをスパークリングワインで割ってあるので、この写真だとまるでニジンスキーを肴にビール飲んでるみたいだけど(笑)
金箔が入ってて、スパークリングの泡で舞っているのです。素敵!
バーテンダーのモンチーも葡萄をまとって牧神仕様になってました。
DANCE ACT「ニジンスキー」
とてつもなく深い作品で、千秋楽から丸一日たった今もずーーーーーっと頭の中で様々な思いがぐるぐるしています。
なので、今回はまったく感想になってません。
自分の頭の中のぐるぐるした気持ちを整理するための落書き状態(>_<)
しかも長いので畳みます。
DANCE ACT「ニジンスキー」初日・千秋楽を含め、5公演観てきました。
呼吸をするのもためらわれるような、ひたすらに圧倒されて微動だに出来ないような、そんな迫力と気迫がこもった静かに熱い熱い作品でした。
個人的には初日の衝撃と、千秋楽の出演者全員の気迫が本当にすごくて…。
5回見たのに5回とも1幕が終わった途端の深呼吸とため息が必須でした。
千秋楽は席が席だったので、もはや酸欠状態。終わった途端に頭痛がするほどでした。
最初は、本当にヴァッツァの踊り、というか動き、一挙手一投足から感じる美しさに圧倒されていました。
でも回を重ねる毎に、ヴァッツァを取り巻くブローニャ、スラーヴァ、ロモラ、フレンケル、それぞれに人間としての葛藤や欲望を感じて感情移入し、ダンサー4人の細かなお芝居や表現に感動し、、、
最後までヴァッツァを捉えることはできませんでした。
だからこそ、追いかけて見つめていたくなるんだろうなぁと。
事前のインタビュー記事等々で、荻田先生が「東山義久は赤い炎、ニジンスキーは内なる青い炎」と表していたけれど、本当にそんな印象でした。
リーダーって普段のお芝居ではよく通る艶のあるしっかりとした声なんだけど、ヴァッツァは内に篭るというか、伝えるために話すのではないような、音を口から発しているだけのような、訥々とした話し方をするのがとても印象的でした。
でもその口調は初日が一番強かったかな。聞こえるか聞こえないかくらいの声だったから。
初日以降修正したのか、だんだんとその特徴が弱くなってしまったんだけれど…あれは初日の方が良かったなぁ。
東山ニジンスキーを見ていると、人間ってこんなにも美しくあれるのかと吃驚する。
まぁ、ニジンスキーは人間って言うよりも、ディアギレフの言うように獣なのかもしれないけれど…。
でも本当に、この世のものとは思えないくらい、とても美しいの。
腕や足が描く曲線とか、指先の1つ1つとか、呼吸に合わせて動く筋肉とか、自由自在に動くのではと思うほど柔らかな関節とか…書けば書くほど変態くさいんだけど、本当に美しくって…。
あと表情もすごくいいんだよね。「薔薇の精」でも「神との結婚」でもヴァッツァは笑っているんだけど、その笑みが全然違う。
前提として、リーダーのヴァッツァは中性的というよりも、両性具有に近いものがあると私は思っているんだけど。
「薔薇の精」はどこか女性的な部分があって、夢の中の少女を誘うちょっと子供のような笑顔と蠱惑的な表情を見せてくれる。
でも「神との結婚」では本当に狂気的な笑みを浮かべているの。何も捉えていない視線の先に、何かを感じていて、ふっと笑みを浮かべながら踊ってるの。
それが怖い。ほんとうに怖い。
ヴァッツァが神につれて行かれるような、そんな恐怖をひたすら感じていました。
もう1箇所、ヴァッツァが連れていかれてしまう恐怖を感じていたのが、兄弟3人で踊る「ティル・オイレンシュピーゲル」。
泰ちゃん演じるスラーヴァが度々ヴァッツァを闇に引きこむように現れるんだけど、その頂点こそがこの「ティル・オイレンシュピーゲル」だと思う。
ブローニャと3人で踊っているのに、ヴァッツァが絡むのはスラーヴァだけ。スラーヴァだけが彼に触れ、彼と対峙することができていて、闇に連れていこうとしているのが伝わってきて「お願い、連れて行かないで」と願いながら何度も泣きました。
「ニジンスキー」の出演者が発表になった時、正直なんで泰ちゃんなんだろう?と思っていました。
ぶっちゃけて言うと、リーダーのバーターでしょ?って思っていたし、それにしてもバレエなら皓ちゃんだろうと。でも違いましたね。
荻田先生の思い描く「ニジンスキー」で兄スラーヴァを演じるには泰ちゃんでなくてはならなかったし、泰ちゃんがリーダーや安寿さんの兄を演じるということでよりスラーヴァの存在感・違和感が出ていて本当に良いキャスティングだったと思います。
きっと泰ちゃんにとって初めてのことがたくさんあっただろうし、とても難しい役どころ、難しい表現だったと思います。
でも公演を重ねるたびにどんどん良くなっていって、千秋楽のペトルーシュカのくだりは台詞と表情の緩急がすごくて、鳥肌が立ちました。
今回のサブタイトルが「神に愛された孤高の天才バレエダンサー」なんだけど、私は今回の「ニジンスキー」という作品を見て、
『ヴァーツラフ・ニジンスキーは愛されるために生まれてきた』
と感じました。
それは決して彼が生きている内に、彼が望む形での愛ではなかったかもしれない。
けれど、確かに彼を取り巻く人々は彼のことを愛していて、彼を知る人々は彼が存在することを望んでいて、いま尚こうして伝説のバレエダンサーとして世界中に名を残しているのも、彼が愛されている証拠なのだと思う。
だって実際、私はヴァッツァが可愛くて仕方なかったから。
幕が開いた段階で狂っているし、その後どうなっていくかもわかっているんだけれど、もうひたすらにヴァッツァが可愛く思えるんです。
愛情とか、永遠に自分を思ってくれるものを欲する渇いた様子とか、触れた手の温もりにそっと頬ずりするところとか、可愛くて仕方ないの。
終演後に友だちに話したら私だけだったんだけど(そういうのに弱いのは自分でもわかってはいる)
劇中のロモラとヴァッツァの会話にあるけれど、ヴァッツァは自分を愛してくれる人を愛したし、また愛されるように仕向けるのが、演じるのがとても得意だった。
だからみんな彼を愛してしまった。
ロモラも、ディアギレフも、ニジンスカも、そして神も、闇も。
愛する人を手に入れようとするのは誰しもが望む自然なことで、ディアギレフが言うように、時にそれは自分ではないものに動かされているように思えるほどの力がある。
もしかしたら、ヴァーツラフ・ニジンスキーは自分自身を手に入れたかったのかもしれないなぁ。
誰のものにもならない自分になりたいんじゃなくて、誰のものにもならない自分自身を、自分が手に入れたかったのかもしれない。
リーダーを好きになって、DIAMOND☆DOGSを好きになって、ダンスという表現を仕事にしている人たちを見るようになって、ダンサーってすごく息の短いお仕事なんだと考えるようになりました。
年を重ねて得られる表現力があるのに、年を重ねれば重ねるだけ体力や身体の美しさは少なからず衰えていく。
やりたいこと・表現したいことは増えていくのに、それを表現できて観客に支持される道具は鈍ってしまう。
スポーツや歌だってそうかもしれないけれど、でも特にダンサーって、踊るってすごく刹那的な芸術なんだなって感じるんです。
だからこそ、人生において一瞬のような美しい瞬間を観ることが出来たら、観客としてすごく光栄なことだと思うし、幸せだと思う。
『いまの東山義久だから出来る、いまの東山義久にしか出来ない、荻田先生の描くヴァーツラフ・ニジンスキー』
まさにそんな作品でした。
ちょうど千秋楽の4月8日はヴァーツラフ・ニジンスキーの命日でもあり(プロデューサーは全く意図していなかったらしいけど)、そういった意味でも今こそ、やるべき時だったのかもしれないですね。
でも、この8日間だけで終わらせてしまうには本当に勿体無いし、いつかまた、ぜひ再演してもらいたいと思う。
どうか、リーダーの体力が続くうちに。 10人の出演者が同時に輝いている奇跡のような瞬間に。